kiwamono's diary

テクノロジーによるシコティッシュの一覧

なごやトリエンナーレについて

(とりあえず概要を掴むべく記事を作りました。訂正するべき情報や追加すべき情報があればTwitter@technotissue のDMまでよろしくお願いします。今後も何か動き次第追加していくのでよろしくお願いします。)

なごやトリエンナーレとは
なごやトリエンナーレ(英名 Nagoya Triennale)は2019年から3年ごとに開催されている国内最大規模の国際「超」芸術祭である。1回目となる2019年は、国内外から4組以上のアーティストを迎え、国際現代美術展のほか、映像プログラム、パフォーミングアーツ、音楽プログラムなど、様々な表現を横断する最先端の超芸術運動として開催されている。
www.nagoyatriennale.info


経緯
2019年8月1日開始となった国際芸術祭「あいちトリエンナーレ」の企画展、「表現の不自由展・その後」*1に抗議が殺到しわずか3日間で展示が中止となる事件があった。が、別にそれには関係なくなごやトリエンナーレは水面下で動き出していた。「なごやトリエンナーレ」は外山恒一*2らの九州ファシスト党の芸術部門の「メインストリーム」などによる反アートの思想運動として企画されたものであり、表現の不自由展で展示されていた慰安婦像や昭和天皇の肖像などの政治的な作品に対してだけの反対ではなくもっと崇高で志の高い、ARTそのものに対するゲリラ運動である。アートとは本来アートのためだけに存在する。官主導で資本主義に回収され体制側になってしまった「似非」アートはアートの自由さを阻害し内側から腐敗させてしまっている。価値や値段や既存の形式、社会的文脈に押さえつけられている。

”日常生活に奉仕する芸術という枠組みのなか原理を放棄し、雇用関係を維持することを目的とする世界には、芸術と表現は存在していない。拝金主義に値札を貼られた追従笑いする侏儒のオブジェ、それが現在の芸術である。存在しないものを擁護・迫害することはできない。よってあれら騒動はお互いの言語空間における争奪戦、権力闘争に他ならない。原理なき権力闘争は無内容なので、「あいち」では何も起こっておらず、新しく生まれるものは何もなかった。”(金津嘉徳氏 美しき砂漠の原理 なごやトリエンナーレ*3より引用)

そのような体制に回収されたアートを解放するため政府や地方公共団体と結びついた美術展やアートイベントに対抗したり妨害したりするのが反アート運動である。それは世界各地で行われてきたものだ。そして今回、反アートの照準はあいちトリエンナーレに向けられた。


(*1 情報の時代
「表現の不自由展」は、どんな内容だったのか? 昭和天皇モチーフ作品の前には人だかりも《現地詳細ルポ》 | ハフポスト

(*2 政治結社「九州ファシスト党・我々団」創設者。政治活動家、革命家であり、ネットではニコニコ動画政見放送が有名。
外山恒一 - Wikipedia
外山恒一政見放送(2007年東京都知事選) - ニコニコ動画

(*3 美しき砂漠の原理 なごやトリエンナーレ|金津嘉徳|note




概要

開催目的
・新たな乾燥地帯の創造・拡張により、名古屋の砂漠化に貢献します。
・人民の内在・願望により、なごやトリエンナーレ名古屋市への具現化を図ります。
​・腸内活性化により、市内公衆便所の利用率を飛躍的に向上します。

テーマ
無上の時代

超芸術監督
​自由流襟座或(じゆうる・えりざある)

会期
2019年8月1日[木]-10月14日[月・祝]


行動・事件
7月31日、愛知芸術文化センターの前でなごやトリエンナーレによるゲリライベント「騒音の夕べ」が行われた。(ワゴン車で施設前の路上に乗りつけ大音量でノイズをまき散らすというパフォーマンス)
https://www.nagoyatriennale.info/pre-event

爆音ノイズだけではなくグラフィックスアートのパフォーマンスも行われたが、それに使っていた絵の具が美術館の敷地を汚したということで職員からふき取るように注意された。それに対するレスポンスとしてなごやトリエンナーレ実行委員会は8.2「表現の不自由展」粉砕行動声明文を発表する。

 ”去る7月31日、我々なごやトリエンナーレ実行委員会は、偉大なる我々の超芸術祭の口火を切るべく、プレイベント「騒音の夕べ」を遂行した。人々を偶像愛好のまどろみから覚醒させ、あらゆるアートをゴミとし、文字通り名古屋の砂漠化を目指す我々の超芸術祭の幕開けにふさわしいものであった。前衛を前衛する我々に対して、洞窟に住む未開人が石を投げつけることしかできないのは当然である。事実、愛知芸術文化センター(以下芸文センター)の職員は、敷地内での騒音散布を理由に「騒音の夕べ」を阻止しようとしてきた。注文はそれだけではとどまらず、あろうことか敷地上への絵具の僅かな飛沫の清掃までも要求してきたのである。敷地とはいえ、そこは多くの人々が行き交う屋外の歩道である。日頃から雑踏にさらされ、時には行儀のいただけない人民により飲食物が落とされることさえある。それらを許容しているにもかかわらず、coup d'États氏に絵具の飛沫を拭き取れと命じるのは、何ら正統性はなく、投石に等しい蛮行であると断言するに聊かの躊躇もない。”
www.nagoyatriennale.info

視点を切り替え床清掃をするように求められたことをあいちトリエンナーレの会場に入るためのチャンスだと思った「騒音の夕べ」のパフォーマーであるcoup d'État氏、室伏氏らは8月7日に清掃用具をもって、美術館内部に清掃作業を口実に乱入。床に持参したバケツで水をまくなどの妨害行動を開始した。まさしく連携である

なごやトリエンナーレスタッフらは「津田(芸術祭の芸術監督を務める津田大介氏)を出せ」などと叫び、その騒動の中で自称室伏良平氏はバケツに入った水をひっくり返し警察に水がかかりそれが悪質と判断されたのか自称室伏良平氏公務執行妨害で逮捕され拘留されてしまう。

”警察は当初から我々の分断を図ってきていた。それがいかなる意図のものなのかは、我々の関知するところではない。いずれにせよ、coup d'États氏と超現場監督がエレベーターに乗り込んだとき、大量の警官が割り込み、広報部員一人がロビーに取り残されることとなった。このとき、超現場監督は危機を察知した。現場に慣れない広報部員への「転び公妨」などの危険を感じ取ったのである。どこからともなく発せられた「それガソリンちゃうん?」という声に乗じ、彼は警官をひるませるために「ガソリンだ」と言いながらバケツの「液体」=DHMOを散布し、広報部員を救出すべく一歩踏み出した。だが、すぐさま警官に取り押さえられ、彼自身が逮捕されることになったのである。”
https://www.nagoyatriennale.info/8-7-seisou
(転び公妨→警察官などの捜査官が被疑者に公務執行妨害罪(公妨)や傷害罪などを巧みに適用して現行犯逮捕する行為)

警察がバケツの水かけただのかけられただので大真面目に対応してるの、シュール過ぎる
そういったくだらない罪なので通常48時間で怒られと共に釈放されるはずが名古屋東署の留置所に17日間も拘留されてしまった。視点を切り替えその留置所はなごやトリエンナーレ会場のひとつになった。その間作られた獄中通信『結束』はwebで全て公開されている。
https://www.nagoyatriennale.info/kessoku

その後略式起訴され罰金刑が発生した。(釈放後は某所にて釈放記念の会が開かれた。)その後メインストリーム×千坂恭二の反アートトークイベント「​アート・反アート・現在・たぬき」*4が9月7日に行われた。
今後も展示や新たなパフォーマンスが行われる予定であり、様々な部門に分かれて現在順調に準備されている。

(*4 https://www.nagoyatriennale.info/tanuki
なごやトリエンナーレ2019アート・反アート・現在・たぬき - Google ドキュメント



・「騒音の夕べ」はcoup d'États氏が主宰する「トラリー・プロジェクト」の一端である。coup d'États氏は、「民族の意志同盟」という政治団体の関西支部長でもあり「未来派」に関心を寄せている。未来派とはダダイズムに先んじて登場したイタリアの前衛芸術運動で、ファシズム運動との渾然一体ぶりで知られる。その未来派の一翼を担った「騒音音楽」を意識し、所有するトラックの荷台に大きなスピーカーを積んで、本拠地とする大阪の難波界隈の路上などに出撃し、大音量でひたすら“騒音”を撒き散らす「プロジェクト」をこの数年たびたび繰り返してきた。決してアートとして回収されるものではなく「前衛迷惑行為」として活動を続けている。(外山恒一氏の記事より一部引用)

・複製技術時代の超芸術監督
https://www.nagoyatriennale.info/hukuseikantoku


愛知県美術館を清掃したパフォーマンスについては日本前衛芸術の一つである赤瀬川原平らの「首都圏整理清掃促進運動」が元になっていると思われるが、それとは異なり服装指定はなく自由な服装で行われた。その後の自称室伏氏逮捕の流れはまるで赤瀬川原平の千円札裁判のようである。60~70年代のネオダダ周辺の前衛の炎が尽きず燃え続け、抑えきれなくなった熱がこの情の時代を破壊するべく吹き出しているかのように思える。保守的でアートにまるで理解のない名古屋でも、かつてはゼロ次元という前衛集団がおり、栄を集団で這いずり回ったり全裸でストリーキングしたりしていた。熱は未だ冷めていないのだ。今こそこれまでの価値基準を全て破壊し、根拠のないまぼろしの値段と生命維持され続けてきた似非芸術を根絶やしにし、名古屋を砂漠化するべきである。また公衆トイレの紙が無料になっても嬉しい。


参考
www.nagoyatriennale.info
note.mu
togetter.com
ironna.jp

密教少女まんだら☆ガール

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縦80cm 横62cm 支持体/ダンボール紙 画材/アクリル絵の具など

7/27くらいからコツコツ描いてた絵がついに完成っぽくなった。美少女曼荼羅です

 

美少女はあくまで空想上の表象であり(現実上に)産まれることもない。老いることも病気になることも死ぬことも無い。脳内ならば美少女は全ては思うがままであり、求めるもの全てに答えてくれる。そもそも何かを求めるからこそそれが手に入れられない苦しみがあるのだし、もし求めるものを手に入れたとしても今度はそれを失うのが苦しみとなる。だが美少女は裏切らない。何故なら美少女なんて存在しないからだ。だからこそ想像することができる。だからこそ救われる。貴方は美少女であるし、美少女もまた貴方である。そしていずれそれすら無くなる。そこまで到達するために必要なもの。生と死を社会に拘束されないために必要なもの。それがこの絵である。なにをいっているんですか?

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Amazonの梱包箱の底に敷いてあるいい感じのダンボール板、それに絵を描こうと思って何枚かとってあったのを養生テープで繋げてジェッソを塗ってキャンバスっぽくしてそこにアクリル絵の具で描いた。とりあえず眺めて可愛いな~って思える感じです。救われて下さいね

 

何か展示する機会があればぜひ展示してみたい。展示ってなんかカッコよくないですか?実際色合いとか光の反射とかあるので生で見るともっと綺麗な気がする。なんか適当に値段付いて売れないかな?アートの売買の仕組みよく知らないけどどなたか買ってください。絵の具代とかで最低限5000円は回収したい。自宅の壁に設置して様々な方法や変性意識状態で鑑賞してください。気軽にDMくださいね

twitter→@technotissue

 

 

トリエンナーレ、現代アート、ポプテピピック

「現代芸術かなり好きなので、昨今話題になる現代アートの周回遅れ感はどうもつらい。何をやってもデュシャンやウォーホルの焼き直し。その一方で仮面ライダージオウが平成の現代芸術として凄い事やったし、そもそもここ数年で最も現代芸術だったのってポプテピピックだし…」

「思うに、日本の場合はギャグ漫画がかなり現代芸術の役割を担ってるんだよね。」

こんなツイートがTwitterのタイムラインに流れてきたときは心底アホかと思った。だってアニメじゃん。アートじゃないじゃん。しかし少し時間を置くとなんだか納得できる気がしてきたのでブログに書いてみることにした。今回はそのツイートの文脈に沿いトリエンナーレのレポも書く。


8月1日あいちトリエンナーレ2019が開催されたが、その中で政治的に偏った展示を行っているという疑いがかかり、あらゆる作家が言及して対立・炎上するインターネット地獄が発生した。「表現の不自由展・その後」という名前で元慰安婦を象徴する「平和の少女像」や昭和天皇の肖像を燃やすような動画作品などを展示するその企画はたったの数日で展示取りやめとなった。

その8月1日、Twitter慰安婦像が展示されているという情報を目にした私は「え!絶対すぐ見れなくなるやつじゃん!キャッキャッ」と嬉々として見に行っていたのである
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入り口にはこのように「展示終了までSNSへの写真の投稿禁止しないでね」と注意書きが。
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展示場所を区切る薄いカーテンはさながら文化や思想の壁を思わせる。会場内は警備員が巡回しピリピリとした緊張感が漂っていたがどこか平和な空気もあり、例えば平和の少女像の横に座り笑顔で写真を撮ってもらうおじさんなどが発生していた。私は普通に写真を撮った
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なんかアウトドアっぽい素朴な椅子だなあと思った。スケベ椅子に座らせたらもっとわかりやすくなるのではないか?感想は以上。そもそも自分の世代(10代)はメディアに扇動されて韓国に対する嫌悪感を持つこともなくKーPOPだとか韓国グルメだとか素晴らしい韓国文化に触れて育ってきたので平和の少女像じたいには特に感じるものはない。「そういうことがあった」という事実を象徴するものとして存在しているということしか知らない。例えるなら広島平和資料記念館の被爆者像。単体では政治的イデオロギーを持たない。しかし今回の「表現の不自由展・その後」には狭い空間に多くの政治的な意図のある作品が展示されており、平和の少女像についても否応なく「これには政治的な主張があるのだろう」と思わせる印象があった。エログロがモチーフの作品も展示されていたら印象も違っていたかもしれないが・・・
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これは暇だったのでコラージュで作った理想の会場の様子

というわけで微妙な展示だった。別に左寄りの展示として尖ってるわけでもない。一方でネットでは「慰安婦像が展示されている!天皇燃やした!許さん!津田許さん!」というヘイト情報が拡散し炎上している。そのうちの何人が実際に展示を見に行ったんだろうか?自分が行ったときは全然ガラガラだったけど・・・恣意的に感情を煽る情報が拡散され多くの人間が動物的にそれに反応する。ポスト真実だ!これはまさしくコンセプトの情の時代そのものではないか。

”世界を対立軸で解釈することはたやすい。「わからない」ことは人を不安にさせる。理解できないことに人は耐えることができない。苦難が忍耐を、忍耐が練達を、練達が希望をもたらすことを知りつつ、その手段を取ることをハナから諦め、本来はグレーであるものをシロ・クロはっきり決めつけて処理した方が合理的だと考える人々が増えた。イアン・ハッキングは著書『偶然を飼いならす:The Taming of Chance』で、19世紀以降の近代社会において、統計学が誕生し、人間を集団––––動物の群れのように効率よく管理する仕組みとともに発展していく様を、フーコーの「生権力」の概念を援用しながら巧みに描いた。21世紀の社会はまさに延長線上にある。われわれは、権力によって、あるいはメディアによって、動物のように管理されている。しかし、それでも人間は動物ではない。人間は、たとえ守りたい伝統や理念が異なっても、合理的な選択ではなくても、困難に直面している他者に対し、とっさに手を差しのべ、連帯することができる生き物である。いま人類が直面している問題の原因は「情」にあるが、それを打ち破ることができるのもまた「情」なのだ。われわれは、情によって情を飼いならす(tameする)技(ars)を身につけなければならない。それこそが本来の「アート」ではなかったか。アートはこの世界に存在するありとあらゆるものを取り上げることができる。数が大きいものが勝つ合理的意思決定の世界からわれわれを解放し、グレーでモザイク様の社会を、シロとクロに単純化する思考を嫌う。”(あいちトリエンナーレ2019芸術監督 津田大介コンセプトより引用)

このコンセプトはアドバイザーである東浩紀の「動物化するポストモダン」で指摘されていた「動物化」について述べられていると感じる。ようするに慰安婦問題といった真実か虚偽か見極めにくいグレーなものに対してまずシロ・クロ付けてからネットなどのメディアで自分の理想の真実の証明に有利な情報だけを回収し独自の世界観を構成してしまう(ネット右翼ネット左翼、Twiterフェミニストやミソジニスト)人々について書かれている。そこでアートという開かれていて公共で独立したものを展示し示すことでグレーなこの世界そのものを見てもらおうといった感じである。実際に表現の不自由展以外の作品でも難民の数の数字を見た人に濃厚なメントール入りのスースーした風で泣いてもらうような作品があったが、あれも実際にいる人間をただの記号である数字に置き換え管理することに対するレスポンスと皮肉が含まれている。弓指寛治氏の作品も事故で死んだ子供たちの人生そのものを描写することにより失われた命に対する想像力を呼び起こすためのものだと解釈できる。ポストモダンの状況において氾濫する情報、真実、感情の中でそれでも人間らしい「人情」の時代を取り戻す。そこまでは良かった。しかし現実はこのありさまである。どうしてこんな大失敗になってしまったのだろうか?


・・・そもそも日本人は現代美術の政治的な作品を鑑賞するリテラシーがない、というか現代美術がよくわからないのではないかと思った。そもそも日本に西洋的なアートという概念が輸入されたのは明治になってからのことで、それまで美術とはもっぱら絵画や彫刻や工芸品などを総称して指すものだった。なので西洋のアートの文脈は日本人からさっぱり抜け落ちており、だからこそ文脈など気にせず鑑賞できる印象派絵画は日本で大人気なのである。そんなよくわからないアートなんかより歴史が古いのは漫画やアニメだ。日本のオタク的なアニメ文化に関しては敗戦によって断絶された日本文化を穴埋めすべくアメリカからもたらされた疑似的なものであると言われるが(同じく東浩紀動物化するポストモダン」より)、その中で扱われる「キャラクターに萌える」という要素は江戸の浮世絵から続く虚構を愛する伝統文化だし「美少女」に関しても歴史がある。村上隆も「日本における美術と大衆芸術の区別のなさ」をスーパーフラットって呼んでる。日本人にはアートの方が新参者でアニメの方がなじみ深いわけである。そこで最初に紹介したツイートに戻る。

「現代芸術かなり好きなので、昨今話題になる現代アートの周回遅れ感はどうもつらい。何をやってもデュシャンやウォーホルの焼き直し。その一方で仮面ライダージオウが平成の現代芸術として凄い事やったし、そもそもここ数年で最も現代芸術だったのってポプテピピックだし…」

「思うに、日本の場合はギャグ漫画がかなり現代芸術の役割を担ってるんだよね。」

アニメじゃん。アートじゃないじゃん。それはそう。現代アートというワードを漠然と「アニメより良いもの」として捉えているとアニメはARTに匹敵する価値のあるものだと言い張る謎の主張に思えるが、西洋での現代美術の位置を日本ではアニメが果たしていると解釈すると納得できる。そして現代美術に対する文脈の理解のなさというのもここまで書いてきた通り日本は遅れていると書いてある。なるほどね。トリエンナーレ、ARTの理解のなさ、そこまで踏まえてのツイートだったのである。そういえば富野由悠季の「機動戦士ガンダム」は実際の戦争の状況と政治的な対立についてリアルに描写している。ちょうど学生運動真っただ中を過ごした影響もあるかもしれない。同じ年代に生まれた宮崎駿も徹底的に反戦的な思想を作品に込めている。それからもアニメや漫画の中では非常に様々な社会的なテーマが扱われてきた。わざわざアートで表現しなくてもアニメでアートの役割を果たせてしまうのである。しかも面白い(というか虚構だと認識しても面白いと感じることができる)。「アートって社会の役に立つ?」とは言われるが「アニメは社会の役に立つ?」とは言われない。そういうわけで西洋で漫画表現が最先端をいかないように日本もまたアートで最先端をいくことはない。日本人にアートはわからない。インターネットによる情報の氾濫で自分にとって正しい情報や世界を構築できてしまう時代になってその結果世界が細分化されて共通の正しさや意味は失われた。異なった物語をもつもの同士は交流せず、正しくないものを徹底的に排除してしまえるようになり動物化した人間が多くなった。そんな動物がわざわざ金を払って自分の世界観を乱すようなアートを見に行くわけがない。その結果デマや炎上記事が拡散し、動物達にさらなる餌(恣意的に感情を煽る情報)が与えられただけで終わった。そういうわけでポプテピピック現代アート(つか前衛)。テコンダー朴は神漫画。おわり