kiwamono's diary

テクノロジーによるシコティッシュの一覧

密教少女まんだら☆ガール

f:id:kiwamono:20190812163914j:image

縦80cm 横62cm 支持体/ダンボール紙 画材/アクリル絵の具など

7/27くらいからコツコツ描いてた絵がついに完成っぽくなった。美少女曼荼羅です

 

美少女はあくまで空想上の表象であり(現実上に)産まれることもない。老いることも病気になることも死ぬことも無い。脳内ならば美少女は全ては思うがままであり、求めるもの全てに答えてくれる。そもそも何かを求めるからこそそれが手に入れられない苦しみがあるのだし、もし求めるものを手に入れたとしても今度はそれを失うのが苦しみとなる。だが美少女は裏切らない。何故なら美少女なんて存在しないからだ。だからこそ想像することができる。だからこそ救われる。貴方は美少女であるし、美少女もまた貴方である。そしていずれそれすら無くなる。そこまで到達するために必要なもの。生と死を社会に拘束されないために必要なもの。それがこの絵である。なにをいっているんですか?

f:id:kiwamono:20190812171259j:image

Amazonの梱包箱の底に敷いてあるいい感じのダンボール板、それに絵を描こうと思って何枚かとってあったのを養生テープで繋げてジェッソを塗ってキャンバスっぽくしてそこにアクリル絵の具で描いた。とりあえず眺めて可愛いな~って思える感じです。救われて下さいね

 

何か展示する機会があればぜひ展示してみたい。展示ってなんかカッコよくないですか?実際色合いとか光の反射とかあるので生で見るともっと綺麗な気がする。なんか適当に値段付いて売れないかな?アートの売買の仕組みよく知らないけどどなたか買ってください。絵の具代とかで最低限5000円は回収したい。自宅の壁に設置して様々な方法や変性意識状態で鑑賞してください。気軽にDMくださいね

twitter→@technotissue

 

 

トリエンナーレ、現代アート、ポプテピピック

「現代芸術かなり好きなので、昨今話題になる現代アートの周回遅れ感はどうもつらい。何をやってもデュシャンやウォーホルの焼き直し。その一方で仮面ライダージオウが平成の現代芸術として凄い事やったし、そもそもここ数年で最も現代芸術だったのってポプテピピックだし…」

「思うに、日本の場合はギャグ漫画がかなり現代芸術の役割を担ってるんだよね。」

こんなツイートがTwitterのタイムラインに流れてきたときは心底アホかと思った。だってアニメじゃん。アートじゃないじゃん。しかし少し時間を置くとなんだか納得できる気がしてきたのでブログに書いてみることにした。今回はそのツイートの文脈に沿いトリエンナーレのレポも書く。


8月1日あいちトリエンナーレ2019が開催されたが、その中で政治的に偏った展示を行っているという疑いがかかり、あらゆる作家が言及して対立・炎上するインターネット地獄が発生した。「表現の不自由展・その後」という名前で元慰安婦を象徴する「平和の少女像」や昭和天皇の肖像を燃やすような動画作品などを展示するその企画はたったの数日で展示取りやめとなった。

その8月1日、Twitter慰安婦像が展示されているという情報を目にした私は「え!絶対すぐ見れなくなるやつじゃん!キャッキャッ」と嬉々として見に行っていたのである
f:id:kiwamono:20190811180437j:plain
入り口にはこのように「展示終了までSNSへの写真の投稿禁止しないでね」と注意書きが。
f:id:kiwamono:20190811180651j:plain
展示場所を区切る薄いカーテンはさながら文化や思想の壁を思わせる。会場内は警備員が巡回しピリピリとした緊張感が漂っていたがどこか平和な空気もあり、例えば平和の少女像の横に座り笑顔で写真を撮ってもらうおじさんなどが発生していた。私は普通に写真を撮った
f:id:kiwamono:20190811181230j:plain
なんかアウトドアっぽい素朴な椅子だなあと思った。スケベ椅子に座らせたらもっとわかりやすくなるのではないか?感想は以上。そもそも自分の世代(10代)はメディアに扇動されて韓国に対する嫌悪感を持つこともなくKーPOPだとか韓国グルメだとか素晴らしい韓国文化に触れて育ってきたので平和の少女像じたいには特に感じるものはない。「そういうことがあった」という事実を象徴するものとして存在しているということしか知らない。例えるなら広島平和資料記念館の被爆者像。単体では政治的イデオロギーを持たない。しかし今回の「表現の不自由展・その後」には狭い空間に多くの政治的な意図のある作品が展示されており、平和の少女像についても否応なく「これには政治的な主張があるのだろう」と思わせる印象があった。エログロがモチーフの作品も展示されていたら印象も違っていたかもしれないが・・・
f:id:kiwamono:20190811182654j:plain
これは暇だったのでコラージュで作った理想の会場の様子

というわけで微妙な展示だった。別に左寄りの展示として尖ってるわけでもない。一方でネットでは「慰安婦像が展示されている!天皇燃やした!許さん!津田許さん!」というヘイト情報が拡散し炎上している。そのうちの何人が実際に展示を見に行ったんだろうか?自分が行ったときは全然ガラガラだったけど・・・恣意的に感情を煽る情報が拡散され多くの人間が動物的にそれに反応する。ポスト真実だ!これはまさしくコンセプトの情の時代そのものではないか。

”世界を対立軸で解釈することはたやすい。「わからない」ことは人を不安にさせる。理解できないことに人は耐えることができない。苦難が忍耐を、忍耐が練達を、練達が希望をもたらすことを知りつつ、その手段を取ることをハナから諦め、本来はグレーであるものをシロ・クロはっきり決めつけて処理した方が合理的だと考える人々が増えた。イアン・ハッキングは著書『偶然を飼いならす:The Taming of Chance』で、19世紀以降の近代社会において、統計学が誕生し、人間を集団––––動物の群れのように効率よく管理する仕組みとともに発展していく様を、フーコーの「生権力」の概念を援用しながら巧みに描いた。21世紀の社会はまさに延長線上にある。われわれは、権力によって、あるいはメディアによって、動物のように管理されている。しかし、それでも人間は動物ではない。人間は、たとえ守りたい伝統や理念が異なっても、合理的な選択ではなくても、困難に直面している他者に対し、とっさに手を差しのべ、連帯することができる生き物である。いま人類が直面している問題の原因は「情」にあるが、それを打ち破ることができるのもまた「情」なのだ。われわれは、情によって情を飼いならす(tameする)技(ars)を身につけなければならない。それこそが本来の「アート」ではなかったか。アートはこの世界に存在するありとあらゆるものを取り上げることができる。数が大きいものが勝つ合理的意思決定の世界からわれわれを解放し、グレーでモザイク様の社会を、シロとクロに単純化する思考を嫌う。”(あいちトリエンナーレ2019芸術監督 津田大介コンセプトより引用)

このコンセプトはアドバイザーである東浩紀の「動物化するポストモダン」で指摘されていた「動物化」について述べられていると感じる。ようするに慰安婦問題といった真実か虚偽か見極めにくいグレーなものに対してまずシロ・クロ付けてからネットなどのメディアで自分の理想の真実の証明に有利な情報だけを回収し独自の世界観を構成してしまう(ネット右翼ネット左翼、Twiterフェミニストやミソジニスト)人々について書かれている。そこでアートという開かれていて公共で独立したものを展示し示すことでグレーなこの世界そのものを見てもらおうといった感じである。実際に表現の不自由展以外の作品でも難民の数の数字を見た人に濃厚なメントール入りのスースーした風で泣いてもらうような作品があったが、あれも実際にいる人間をただの記号である数字に置き換え管理することに対するレスポンスと皮肉が含まれている。弓指寛治氏の作品も事故で死んだ子供たちの人生そのものを描写することにより失われた命に対する想像力を呼び起こすためのものだと解釈できる。ポストモダンの状況において氾濫する情報、真実、感情の中でそれでも人間らしい「人情」の時代を取り戻す。そこまでは良かった。しかし現実はこのありさまである。どうしてこんな大失敗になってしまったのだろうか?


・・・そもそも日本人は現代美術の政治的な作品を鑑賞するリテラシーがない、というか現代美術がよくわからないのではないかと思った。そもそも日本に西洋的なアートという概念が輸入されたのは明治になってからのことで、それまで美術とはもっぱら絵画や彫刻や工芸品などを総称して指すものだった。なので西洋のアートの文脈は日本人からさっぱり抜け落ちており、だからこそ文脈など気にせず鑑賞できる印象派絵画は日本で大人気なのである。そんなよくわからないアートなんかより歴史が古いのは漫画やアニメだ。日本のオタク的なアニメ文化に関しては敗戦によって断絶された日本文化を穴埋めすべくアメリカからもたらされた疑似的なものであると言われるが(同じく東浩紀動物化するポストモダン」より)、その中で扱われる「キャラクターに萌える」という要素は江戸の浮世絵から続く虚構を愛する伝統文化だし「美少女」に関しても歴史がある。村上隆も「日本における美術と大衆芸術の区別のなさ」をスーパーフラットって呼んでる。日本人にはアートの方が新参者でアニメの方がなじみ深いわけである。そこで最初に紹介したツイートに戻る。

「現代芸術かなり好きなので、昨今話題になる現代アートの周回遅れ感はどうもつらい。何をやってもデュシャンやウォーホルの焼き直し。その一方で仮面ライダージオウが平成の現代芸術として凄い事やったし、そもそもここ数年で最も現代芸術だったのってポプテピピックだし…」

「思うに、日本の場合はギャグ漫画がかなり現代芸術の役割を担ってるんだよね。」

アニメじゃん。アートじゃないじゃん。それはそう。現代アートというワードを漠然と「アニメより良いもの」として捉えているとアニメはARTに匹敵する価値のあるものだと言い張る謎の主張に思えるが、西洋での現代美術の位置を日本ではアニメが果たしていると解釈すると納得できる。そして現代美術に対する文脈の理解のなさというのもここまで書いてきた通り日本は遅れていると書いてある。なるほどね。トリエンナーレ、ARTの理解のなさ、そこまで踏まえてのツイートだったのである。そういえば富野由悠季の「機動戦士ガンダム」は実際の戦争の状況と政治的な対立についてリアルに描写している。ちょうど学生運動真っただ中を過ごした影響もあるかもしれない。同じ年代に生まれた宮崎駿も徹底的に反戦的な思想を作品に込めている。それからもアニメや漫画の中では非常に様々な社会的なテーマが扱われてきた。わざわざアートで表現しなくてもアニメでアートの役割を果たせてしまうのである。しかも面白い(というか虚構だと認識しても面白いと感じることができる)。「アートって社会の役に立つ?」とは言われるが「アニメは社会の役に立つ?」とは言われない。そういうわけで西洋で漫画表現が最先端をいかないように日本もまたアートで最先端をいくことはない。日本人にアートはわからない。インターネットによる情報の氾濫で自分にとって正しい情報や世界を構築できてしまう時代になってその結果世界が細分化されて共通の正しさや意味は失われた。異なった物語をもつもの同士は交流せず、正しくないものを徹底的に排除してしまえるようになり動物化した人間が多くなった。そんな動物がわざわざ金を払って自分の世界観を乱すようなアートを見に行くわけがない。その結果デマや炎上記事が拡散し、動物達にさらなる餌(恣意的に感情を煽る情報)が与えられただけで終わった。そういうわけでポプテピピック現代アート(つか前衛)。テコンダー朴は神漫画。おわり

アートにおける映像メディアの現在と、これからの想像力について

かつてカメラの発明がされたとき、どんな絵より正確に世界を切り取ってしまうそのメディアに影響されたことで人の目で捉えた色彩を描き点描など自由なタッチを施す印象派が台頭した。印象派はそれまでの宗教画や貴族の肖像画といったアカデミックな主題から解放され風景や光、時間、ものの運動など日常的なものが描かれる。(それ故に誰でも理解しやすく、また日本に芸術という概念が持ち込まれた際の運動でもあるため日本で人気がある)
その表現はカメラがリアルなイメージを写し取るものという意識から生まれたと言えるが、実際のところカメラが写し取ったものが本当に正確でリアルだと言えるのかは難しい。
現在の我々は日々多くの写真、画像、動画の情報を全て現実のイメージとして吸収しているので基本的にそれらは現実的だと感じるが、人間の視覚能力を超えたイメージさえ現実的だと捉えてしまうのは少し不思議な現象だとは思わないだろうか?例えば骨折して足の骨を折ったとする。病院にかかり患部をレントゲン撮影したとする。レントゲンの写真が写しだした肉の内側の骨折箇所の様子は現実のものとして認識される。それが本物の骨なのかなど疑いさえしない。少し前ブラックホールだと公開された写真…に写っているのはオレンジ色のドーナツのようなモヤのイメージだった。実はそれは数式から出力されたものに色付けされたイメージなのだが、人々は「これがブラックホールの姿なのか!」と現実のものとして受け入れた。カメラや計算機の出力したイメージ、あくまでリアルそのものではないイメージのメディアが人に現実感という記号を与え、見えない世界への知覚を拡張していることが理解出来る。(見えないものを見ようとして望遠鏡を覗き込んだ)

ところで人工衛星から撮影された地球上の超細密なイメージがgoogleMAPとしてユーザーに提供されたことで誰しもがインターネットに接続すれば世界中のどこの国のどこの町でも眺めることができるようになった。インターネットが全世界のユーザにあらゆる情報やコミュニティへのアクセスを可能にしたことで情報が保存されている限りいつだって何度だってどれだけだってあらゆる人間の意見を耳にできるように、
あらゆる人間の表現に触れられるように、あらゆる人間と知り合えるようになった。それは素晴らしいことのように思えるし、先述の通りメディアが個人の知覚を拡張してくれている。
しかし一方でそれらの情報が現実の上に覆いかぶさることは同時に人の想像力を制限することを意味する。地球上を全て眺められるGoogleMAPは子供のころ抱いていた「行ったことない場所への好奇心」を否定し「なんだ地球って意外と小さいししょぼいのではないか」と思わせた。どんな意見でも聞くことができる自由なネットでは人はわざわざ自分を否定するような意見を聞こうとはしない。価値観の合わない人間と仲良くなろうともしない。思いつくアイデアは全てインターネットで探せばすでに存在する。美少女の絵を描こうとイメージを検索してももはや自分が描く必要はないのではないかと思ってしまうくらい多くのイメージがすでに存在している。動物を可愛がりたければまずyoutubeを開いて動物の動画を検索する。現実の動物を可愛がるより動画の方が現実と同等に現実的で楽だからである。(液晶の画面に写った光の信号を解釈している、という過程は無意識に無いものとされている)じきにAIが無限のポルノと可愛い動物のイメージを生成するようになるだろう。そしてその後の世代はポルノをAIが作ったこともそれが光の粒であることも気にならなくなる程無自覚に想像力を失うだろう。(AIが作り出したポルノと現実のポルノは区別されないだろう)(そしてAIによる黒人ポルノ女優の生産量が少ないだとか多いだとか人権団体は文句を言うだろう)それが幸福であるかそうでないかは置いておき、そんな技術の進歩とそれによる予定不調和を提示し再考させる役割を果たすのが現代のアートになると考えられる。かつて「材料として見られていた物質それ自体」に意識を向けさせたもの派の作品のように、現実感や表象を与える上で透明化されていたメディアそれ自体に意識を向けさせるだろう。もしくはメディアは透明で意識されないことを前提とした上で複数のメディアを当たり前のように複数組み合わせて使用して純粋なイメージをもたせるかもしれない。そのとき作家と鑑賞者は自身の想像力と身体の範囲を把握し正しく制御することが可能になると思う。