kiwamono's diary

テクノロジーによるシコティッシュの一覧

うんこ、カレー、引きこもり

大学は多様な価値観と触れ合う場所と言われるが大体それを意識する奴は少数派である。多数派は自分達の所有する価値観について疑問に思いにくいからだ。

少数派であることを意識するほど多数派との触れ合いの中で価値観のズレを見出してしまい、そこから抜け出す事が難しくなる。みんながカレー食ってる中うんこ食ってるようなもんで、そりゃ「こいつらカレー食ってんのになんで俺うんこ食ってんの??でもうんこ好きだし…」と思うのは当たり前だ。

もちろんうんこも美味いかもしれない。でもカレー食ってる奴らが「カレー美味いよな!」って言ってる中に「俺はうんこが好き!」ってアピールするのは良くない。そして「あいつうんこなんて食ってんの!?」って拒絶するのも良くない。「絶対食えば分かり合えるって!」とお互い好きでもないものを食わせ合うのも良くない。ズレは直らないので必ずどちらかがどちらかに合わせなければいけなくなる。そしてそれは大抵少数派側だ。必要なことはお互いに尊重することであり、これが多様な価値観の存在する社会に必要なことだ。「あいつはうんこが好き」「おれはカレーが好き」そういうふうに個々が独立した感覚を持ち、自分の価値観を相対的に把握出来て尊重できるのが理想だ。本当は誰もが価値観が違い、うんこ味のカレーが好きなやつもカレー味のうんこが好きなやつもいるのだ。

そもそも何故人は会話出来るのか。言語にしても、例えば犬を伝えるのには「犬という漢字やいぬという発声」のシニフィアンと、実際に現実に存在する犬というシニフィエが結びついていなければならない。同じ言語を話す人間同士だってそうした脳内の語彙の個人的な辞書には多かれ少なかれ違いがある。それを細かく確認し、質問し合うことでお互いのコミュニケーションは成立し、会話が成り立つ。その確認作業が大変な相手とはコミュニケーションは成り立ちにくい、これは価値観の話に似ている。統合失調症の症状には造語というのがあり、脳内でできた言葉を平然と他人に向けて使うことがある。そんな相手とはコミュニケーションが成立しない。自分と他人を言語的に区別できなければ、他者とのコミュニケーションに必ず感覚的な拒絶を抱いてしまうのだ。そして引きこもりが完成する。大切なのは自分と他人は全く別の存在であり、頭の中の個人的な辞書は必ず人それぞれ異なっていると意識することだ。そうすれば多数派はいない。少数派もいない。目の前のひとりの他者とまともに向かい合うことができる。そこを間違えるとセカイは自分vs自分以外の「みんな」になる。個人と向き合えないから「みんな」という曖昧な概念に怯えることになる。「お前はみんなから嫌われているぞ」「お前はみんなの中に入っていけない」 みんななんていうのは自分が作り出す集団の仮想敵なのだ。

人と向き合うのは難しいことで、楽しいけど傷ついたりすることもある。しかし人と向き合わず孤独を背負うのはとても辛いのだ。

まずは近くの人に挨拶するところから全ては始まる。さあ話しかけよう!

「うんこ食うの好き?」