kiwamono's diary

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アートにおける映像メディアの現在と、これからの想像力について

かつてカメラの発明がされたとき、どんな絵より正確に世界を切り取ってしまうそのメディアに影響されたことで人の目で捉えた色彩を描き点描など自由なタッチを施す印象派が台頭した。印象派はそれまでの宗教画や貴族の肖像画といったアカデミックな主題から解放され風景や光、時間、ものの運動など日常的なものが描かれる。(それ故に誰でも理解しやすく、また日本に芸術という概念が持ち込まれた際の運動でもあるため日本で人気がある)
その表現はカメラがリアルなイメージを写し取るものという意識から生まれたと言えるが、実際のところカメラが写し取ったものが本当に正確でリアルだと言えるのかは難しい。
現在の我々は日々多くの写真、画像、動画の情報を全て現実のイメージとして吸収しているので基本的にそれらは現実的だと感じるが、人間の視覚能力を超えたイメージさえ現実的だと捉えてしまうのは少し不思議な現象だとは思わないだろうか?例えば骨折して足の骨を折ったとする。病院にかかり患部をレントゲン撮影したとする。レントゲンの写真が写しだした肉の内側の骨折箇所の様子は現実のものとして認識される。それが本物の骨なのかなど疑いさえしない。少し前ブラックホールだと公開された写真…に写っているのはオレンジ色のドーナツのようなモヤのイメージだった。実はそれは数式から出力されたものに色付けされたイメージなのだが、人々は「これがブラックホールの姿なのか!」と現実のものとして受け入れた。カメラや計算機の出力したイメージ、あくまでリアルそのものではないイメージのメディアが人に現実感という記号を与え、見えない世界への知覚を拡張していることが理解出来る。(見えないものを見ようとして望遠鏡を覗き込んだ)

ところで人工衛星から撮影された地球上の超細密なイメージがgoogleMAPとしてユーザーに提供されたことで誰しもがインターネットに接続すれば世界中のどこの国のどこの町でも眺めることができるようになった。インターネットが全世界のユーザにあらゆる情報やコミュニティへのアクセスを可能にしたことで情報が保存されている限りいつだって何度だってどれだけだってあらゆる人間の意見を耳にできるように、
あらゆる人間の表現に触れられるように、あらゆる人間と知り合えるようになった。それは素晴らしいことのように思えるし、先述の通りメディアが個人の知覚を拡張してくれている。
しかし一方でそれらの情報が現実の上に覆いかぶさることは同時に人の想像力を制限することを意味する。地球上を全て眺められるGoogleMAPは子供のころ抱いていた「行ったことない場所への好奇心」を否定し「なんだ地球って意外と小さいししょぼいのではないか」と思わせた。どんな意見でも聞くことができる自由なネットでは人はわざわざ自分を否定するような意見を聞こうとはしない。価値観の合わない人間と仲良くなろうともしない。思いつくアイデアは全てインターネットで探せばすでに存在する。美少女の絵を描こうとイメージを検索してももはや自分が描く必要はないのではないかと思ってしまうくらい多くのイメージがすでに存在している。動物を可愛がりたければまずyoutubeを開いて動物の動画を検索する。現実の動物を可愛がるより動画の方が現実と同等に現実的で楽だからである。(液晶の画面に写った光の信号を解釈している、という過程は無意識に無いものとされている)じきにAIが無限のポルノと可愛い動物のイメージを生成するようになるだろう。そしてその後の世代はポルノをAIが作ったこともそれが光の粒であることも気にならなくなる程無自覚に想像力を失うだろう。(AIが作り出したポルノと現実のポルノは区別されないだろう)(そしてAIによる黒人ポルノ女優の生産量が少ないだとか多いだとか人権団体は文句を言うだろう)それが幸福であるかそうでないかは置いておき、そんな技術の進歩とそれによる予定不調和を提示し再考させる役割を果たすのが現代のアートになると考えられる。かつて「材料として見られていた物質それ自体」に意識を向けさせたもの派の作品のように、現実感や表象を与える上で透明化されていたメディアそれ自体に意識を向けさせるだろう。もしくはメディアは透明で意識されないことを前提とした上で複数のメディアを当たり前のように複数組み合わせて使用して純粋なイメージをもたせるかもしれない。そのとき作家と鑑賞者は自身の想像力と身体の範囲を把握し正しく制御することが可能になると思う。